<ぶらり京都>
<三十三間堂>
1164年(長寛2)鳥辺山麗の後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進しました。
約80年後に焼失してしまうのですが、すぐに1266年(文永3)に再建されました。
その後、室町・桃山・江戸そして昭和と4度の大修理により700年間保存されています。
長いお堂は和様の入母屋・本瓦葺きの「総檜造り」で約120m。
正面の柱間が33あることから「三十三間堂」と呼ばれ、
堂内には1001体もの観音像が祀られています。
「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しています。
また見落としがちですが境内・南の通称「太閤塀」と呼ばれる築地塀と南大門は、
ともに豊臣秀吉ゆかりの桃山期の気風にあふれた重文・建造物です。
<妙法院>
延暦年間(782-805)に最澄によって
延暦寺三千坊の一つとして草創されたのが始まり。
その後、転々とし、この地に移ったのは元和元年(1615)。
明治維新まで代々法親王が住持され、
天明の大火の際は、
光格天皇の皇后が一時ここに行啓されるなど皇室との関係も深く、
文久3年(1863)に三条実美等7卿が長州藩と当院で密議を交わし、
ここから都落ちしたのは有名。
※久しぶりにリフレッシュできました!
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三十三間堂 |
正式名は、蓮華王院。
その本堂が「三十三間堂」と通称されます。
これは、東面して、南北にのびる
お堂内陣の柱間が33もあるという
建築的な特徴によります。
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築地壁(太閤壁) |
築地塀の築地とは「築き泥」の略。
仮枠を並べて中に土を層状に積み上げ,
乾燥後枠を外す,という方法で造られる。
中に定規筋と呼ばれる白い線を入れるようになり,
やがてその線は5本を最上として,
線の数がその社寺等の格を表すようになった。
5本の線は、皇室に対する,秀吉の「こだわり」 |

妙法院 |
皇族・貴族の子弟が歴代住持となる
別格の寺院を指して「門跡」と言うが、
妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)
とともに「天台三門跡」
と並び称されてきた名門寺院である。 |

妙法院(大庫裏) |
桃山時代の建築。
庫裏は寺院の台所兼事務所の役割
を果たす内向きの建物。
妙法院庫裏は、豊臣秀吉が先祖のための
「千僧供養」を行った際の台所
として使用されたと伝える豪壮な建物。
庫裏は屋根を切妻造とするものが多いが、
当院の庫裏は入母屋造 |

妙法院(宸殿) |
阿弥陀如来座像と
歴代の天皇・皇后・中宮のご位牌が安置。
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